雛人形 ひな祭りー上巳(じょうし)の節句/桃の節句

雛人形について
ひな祭りは中国旧暦3月最初の巳の日に川での厄祓いに由来しています。本日は2013年の3月最初の巳の日。
私へ降りかかる災難はこの人形が背負ってくれるとの事で小さな物を頂きました。形を見た瞬間眠っていた記憶が鮮明に蘇りました。写真のように丸くはなっていませんでしたが明らかにこの形です。多分祖母が着物で作っていたんだと思います。数日前雑誌を開いた所又同じものを発見しました。這子(ほうこ)と呼ばれ、文字通りはいはいする子供の姿をかたどった物です。雛段に飾られ子供の玩具として親しまれ、幼児の病や厄災の身代わりとしたものだそうです。今回は桃の節句にちなみ雛人形の移り変わりを時代を追ってみましょう。

平安時代 11世紀
人形(ひとかた)形代(かたしろ)、又人の体をなでてその人の穢れを移すものですので撫でもの
産着を着せられ這子と同じように川に流される目的の天児(あまがつ)ひいな偶人(ぐうじん)土偶人木偶人がい人傀儡(かいらい)などこれらすべては人形を指す言葉です。「源氏物語」や「枕草紙」にあり、人形(にんぎょう)としては平安時代末期の辞書「色葉事類抄(いろはじるいしょう)」に記載されていました。この時代は邪気払いという信仰的な意味合いを含む人形です。一方の実生活においては女の子の間で雛(ひひな)遊び、今で言うままごと遊びは年間を通してみられました。遊びにはどちらかというと邪気払いに使う人形ではなく小さく作られた調度品などだったようです。

室町時代
御人きやうという呼び名で女官たちの日記「お湯殿の上の日記」に見られ、陰陽師が係わり人形は呪術的要素が強いものでした。公家社会では上巳の節句は非公式な行事でありましたが、16世紀末期江戸幕府時代に5節句を公式儀礼として定められたため雛遊びは上巳の節句の遊びと定義付けられ季節的な行事として変わってきました。

17世紀 江戸時代
次第に関東の市井の裕福な娘たちにも人形遊びが広まりましたが、武家社会の江戸では幕府による奢侈(しゃし)禁止令に従いミニチュア化した芸術的玩具が生まれてきました。この頃には雛人形は上巳の節句の愛玩具としての役割となっていました。京都、江戸と階級による各様式の雛人形が見られるようになりました。地方が違えば面立ち、並べ方などの違いも生じるのは自然の事となります。

18世紀
次第に贅を尽くした雛人形は装飾性質が強くなり玩具から鑑賞用に移行してきた時代となります。

近年
明治の時代になり太陽暦の採用により五節句が公式の休日で無くなったためその習慣が薄れた時もありましたが、日進戦争や日露戦争時においては尚武=勝負の精神より5月の菖蒲の節句、続いて上巳の節句も祝れるようになり、各地方の雛祭りの様式が融合され大衆化が進んだとされます。

多分私が這子を見たのも、かなり幼少の頃かもしれません。断片的な記憶が思わぬ展開となりひな祭りを楽しくお祝しております。桃の花は邪気払いの花として中国ではお酒に浮かべ飲んで無病息災を祈ったそうです。太陽暦の現在ではまだちょっと桃の季節には早いですね。

参考資料 Express 3, 2013
上巳の節句2010のブログです